2011年11月23日水曜日

 


こんばんは、先生。私のためにここまできてくださって本当にうれしいです。お呼びしておいて申し訳ないんですが、今はやっぱり率直に話をするのが、どうにもできそうにありません。いいえ、話したくて仕方ないんですが、勇気がでないんです。それは、私の気持ちがいまだに、整理がついていないからなんでしょう。

それで、どうしたら先生に相談できるか、私なりに考えたんです。考えたあげく、今の私に降りかかっている問題を、これから一つの比喩に置き換えてお話しようと思います。唐突に聞こえるでしょうが、どうぞ話にのってください。だいぶ的外れな話じゃないかと思われるかもしれませんが、私が欲しいのは、ささやかな一つの答えなんです。それさえわかれば私は充分なんですよ。ですから、的確に答えを出そうなどと考えていただかなくっても大丈夫です。

その比喩とは、こうです。私はここ何年か、どうも人を殺してしまったような感覚にとらわれる時があるのです。けれども、殺した感覚だけが残っていて、誰を殺したのかわからないから、自分が人を殺したと確認することもできないのです。友達に話しても誰も相手にしてくれないし、新聞を見てもそれらしい事件は載っていない。いったい何の比喩だと笑われるかもしれませんが、私自身にとっては真面目な問題で、正直困っているんです。

先生が怪訝な顔をなさるのも、もっともだと思います。証拠がまったくないのに、人を殺してしまったという感覚にとらわれているなんて、おかしいですよね。それにたとえそう思っているのだとしても、なぜ殺したのかというと動機が欠けているだけでなく、誰を殺したかその相手を特定することもできないなんて、それじゃあ君の思い込みにすぎないだろうと、そう思っていらっしゃるのでしょうね。あるいは、その殺したという感覚には、どのように殺したのかという手がかりすらも、まったく残っていないのか。かりにどのように殺したのかがまったくわからないとしても、その感覚というのは、身体のどこかの部分、たとえば手などに残存しているようなものなのか。先生のような冷静な分析家なら、そんな疑問も浮かんでくると思います。殺すという行為は、単にある特定の相手の身体を傷つけたという感触と同じものではなく、ある命をまるごと自らの手中におさめ、それが息途絶えるまでの過程を見極めたという感触が、つきまとうはずなのでしょうから。

そうですね、たとえば私がゴキブリを殺すとします。私はスプレーではなく、きまって丸めた新聞紙を使います。それを思いっきり振り上げて、ゴキブリを叩きつぶす。命中したらすばやくティッシュで包んで、ビニール袋に入れる。絶対に中から出てくることがないように、袋の口をきつく縛る。まだガサゴソと音がするときは、TVのボリュームを上げてやり過ごす。私はこういう一連の作業がすごく苦手で、顔を背けながらやるんです。小さい命であるとはいえ、いつも結構な手応えを感じます。もちろん人間であれば、すぐに片づけることもできませんし、そんなものではすまされないことはわかっています。けれど私は、自分が人を殺した場合、かならずしもそうした手応えがともなうとは思えないのです。

殺人はその、ことの重大さとは無関係に、行為自体としては、非常にあっけない場合もあるんではないでしょうか。端的にそれは、手段によって大きく変わります。両手で首を絞めるか、ナイフで刺すか、銃で撃つか、薬を盛るかでは、行なった者のなかに残る感覚がまったく違ってくるでしょう。つまり、殺人という事実と殺人を犯したという実感とのあいだに、大きなずれが存在するような場合もあるのではないか、私はそう考えているのです。

私のしたことを殺人に置き換えると、どのような手口になるのでしょう? いずれにしても、私はもはや殺している最中の感覚にとらわれているわけでないと思います。 もしかしたら殺していないのかもしれないという疑念が残っているくらいですから。ですから、私の言っている人を殺したかもしれないという感覚とは、手を使って殺す類いのものではなく、相手の身体に触れずに行なうものなのでしょうね。強いて言うならそれは、下には隙間がないほどの通行人が歩いていることを知りながら、高層ビルの屋上からビール瓶を落とすようなものです。下を確認することもできず、音も聞こえてこない。それでも私は、人を殺したという確信を持っている。そうした状況に近いのです。

先生を煙に巻いているつもりは毛頭ありませんよ。しかし人を殺したら、本当にそれ以後ずっと、そのことに苛まれつづけるものなんでしょうか。捕まるかもしれない、罰や報復を受けるかもしれないという不安を除外したら、どのくらいそれが持続するものなのでしょう? 私の場合、殺人の痕跡が残っておらず、誰も殺人があったことを認めない以上、罪に問われ法によって裁かれることはありません。もしかしたらそのうち、何もしていなかったと割り切って、すべてを忘れてしまうかもしれません。私はそのくらい単純で、いい加減な人間だということを、自分で知っているつもりです。けれど一方で、人を殺しておいてそれでいいなんてことはありえないという思いを、いまだに拭えずにいるんです。

結局のところ、「誰を」という、私をめぐる何がしかの人間関係も、「なぜ」という、私自身の行為の意図や意志に関わることも、どちらもあまり重要ではないのと同様に、今まで述べてきた「どのように」ということだって、私にはたいして問題ではないんでしょうね。ともかく、何かを殺すとは、この世界という総量から何かが一定量減る、ということだけれど、むしろこのケースでは、世界からは何も減らずに、殺人をしたという感覚だけが、まるである種のラベルを貼ったみたいに、私にのみ付加されているかのような状況なんです。

先生はおそらく今、私にこう言いたいのでしょう。ええ、わざわざ口に出していただかなくとも、私にはわかります。君はささやかであれ、何らかの一つの答えが欲しいと言った。答えを望むということは、君が何かを問いかけたということになる。しかし君の問いかけは、はたして真の問いかけだろうか? だいたい今の君の状態に、何の不都合があろうか。もしも殺したという感覚を忘れたくないのなら、今のままでいればよい。これ以上何かする必要も、特に考えをすすめるべきこともない。できるのは、それを抱えるか背負うかしつづけることだけだ。逆に、もしも殺したという感覚を忘れたいのなら、とっとと忘れてしまえばいい。現に今にも忘れそうなことなのだから容易いことだ。こちらの場合においても、何かすべきことも考えるべきことも、もはやない。つまり君の問いとは、片側のない、単なる問いである。答えのない問題こそが問題であるとしても、他の者からすれば、それは問題ではないと見なされてしまうだろう。問いに対する答え、というように、片側からもう片側へと移行することの欲望が、われわれの知を動機づけている。二項対立というよりも、その一方の極から他方の極へという連続性が、そこを動き回ることを可能にしている。だが、単なる問いは、運動させることなく停止させるよう、われわれを促す。だから問いのなかに住まうことなど、誰にもできはしない。ゆえに、君が問うことを捨て、再びこの世界に帰るためになしうることは、ただ一つしかない。すなわち、もしも殺したという感覚があやふやで、それをもっと確かなものにしたいのなら、君が誰かもう一人を、今度は確固たる仕方で、ゴキブリを叩きつぶす時と同じ手際で、しっかり殺したとわかるように殺せばいい——そうおっしゃりたいのでしょう? そうなんです、だからこそ私は、今夜こうして先生をお呼びしたんです。


monolog


collaborated with Shinichi Takashima