2011年11月14日月曜日

 


 十幾年前、当時交際を始めたばかりの妻と先生と三人で森下にある鰻屋に行ったことがある。先生に彼女を紹介したのは初めてだったこともあり、どのように受け止められるのか私は内心緊張していた。先生は素直に喜んでくれていたのだが、それと同じくらいに関係が続くかを心配されている様子だった。そして私たち二人に、長続きするためのアドバイスを頼んでもいないのにいろいろしてくれたのである。私は、複雑な感情にとらわれている先生の表情を伺いながら、どうすればそれが和らぐのか考えながら相づちを打っていたのを記憶している。先生は一体何を理由にそこまで不安を覚えたのか、今では本人に聞いてもぼやけた答えしか返ってこない。当時、私と妻の印象はまだまったく馴染んでいなかったからと、単純にそれくらいのことだったのかもしれない。結局夫婦となる男女は初めから似ているのではなく、時間が経つことで似てくるものなのだ。
 それはさておき、その時教えてもらった先生のアドバイスで、今でもたまに思い出すものが一つある。
「いいかい。お互いがお互いを信用することなんだ。嫉妬をしてはいけないよ。たとえばどちらかが誰かと食事すると言ってもそれを許してあげなければいけない。共働きでやっていくのだから、仕事や友達の付き合いというのは必要だからね。だから自由にさせてあげなければいけない。相手を疑ったらまずいのだ。そしたら相手は本当に裏切りたくなってしまう。疑うことを知らず、信用しきっている人間を人は簡単に裏切れないものだよ。」
 と、先生のこのアドバイスは説得力があり納得がいき、今でも心がけている事柄である。しかし、当時は他方でこうも考えた。はたして原因がなくて人は疑うだろうか。人を疑ってしまうのはそれなりの理由があるからなのではないかと。であるならば、疑う前から相手は自分のことを裏切っていたかあるいは裏切る予兆があったのではないかと。つまり彼、彼女はそれに気がついたにすぎないのではないか。多少関係の破綻を早めるということはあっても、その予感は真実であり原因ではない。疑うから裏切るのではなく、あくまで裏切られそうか裏切られているから人は相手を疑うのではないかと。
 このことが気になり私は後日質問を投げかけてみると、先生はこうおっしゃられた。
 「いや、そうではない。誰しもが相手を裏切る潜在性を持っている。それが人間というものだ。現在まだ裏切っていないとしてもこれから裏切ることが絶対にないと誰が否定できるだろうか。もちろん、自分を信じているのなら私は絶対に裏切らないと言う必要があるし、それを信じられれば疑う必要はない、いや、疑ってはいけないと思う。だがだよ、現実的に裏切りの行為を行わないとしても、寝言でなにか口にしてそれが聞かれれば、それはもう裏切ったと同じだよね。そこまで人間は死ぬまで自分をコントロールできると断言できるだろうか。わかっていると思うが、二人の愛を裏切らない人間などいないと言っているわけではない。私自身もそうであろうと努めている。そうではないが、そうならないと信じるのではなく、断定することはできないという話だ。
 あるいはこうかもしれない。もし、自分が完全なシロだとしても相手を密かに裏切っているという嫌疑をかけられた場合、完全に身の潔白を証明することはできないのではないだろうか。なぜなら、一人の人間を完全に監視することはできないからね。そして疑い始めたら相手の行為や発言は解釈によっていくらでもねじ曲げられてしまうんだ。だからこそ、信用することが必要なのだよ。」
「なるほどよくわかりました。つまり、先生は自分や相手を疑い始めたらきりがなくなり、その可能性について考え始めたら、どこかでその可能性のドアを否定しつつも開けてしまい、結局はその可能性に従ってしまうとお考えなのですね。」
「まるで、オイディプスのみたいな話だけれども、現実を見てみるとそのようなことはよくあることなのではないかね。」


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