2016年1月4日月曜日

行為の積み重ねと技術の向上

普通の人はなぜ自転車を毎日乗るのに、一定のレベル以上にうまくなるということがないのか。
自転車を毎日乗る人は、全然乗らなくなっている人よりも、体力的に技術的に、あきらかに優れている。けれども、乗れば乗るほど、どんどん自転車を乗る技術が向上するということはない。
自転車を競技やスポーツとして捉えない限り、普通に乗れるようになってからは、毎日乗っても、ある一定のレベル以上うまくなることはない。うまさが維持される程度にとどまる。
自転車を習慣的に毎日1時間乗る人と、練習で毎日一時間乗る人ではあきらかに差異が現れる。習慣・日常と練習の違い、課題の発見や向上の意識の有無の違いとなるだろう。練習には、習慣のなかにある行為の反復とは、異なる飛躍の発見が内包されていることになる。
習慣は、練習とは別に、行動や運動の負荷を透明化したい欲求を生み出したりする。ママチャリを漕いでることを忘れて別のことを考えたり、鼻歌を歌うようになったりする。
習慣や練習とは別に、運動(ダイエットや筋力トレなど)がある。
ダイエットのために毎日走っているんですというのは、技術向上ではなく、脂肪を燃焼することを目的にしている。目的化されると、装備や身体の動かし方、呼吸の意識に変化が現れるため、そういう目的を持った運動は、駅まで毎日通勤のために走っているのと、違いが認められる場合もあるだろう。
仕事や日常的に身体を使っているので、わざわざ運動する必要はないという人もいれば、身体を動かしていても、お腹が出てきてしまったので、腹筋などの筋トレが必要になる人もいる。腹筋はうまいかどうかよりも、ちゃんとできているかどうかということが求められる。
ただ、日常の動作を練習と捉えたり、運動と捉えるという人である。そういう人は、習慣として自転車を乗るにしても、意識や習得に変化が現れる。
包丁の使い方のように毎日いろんな料理を作る中で、特別意識しなくても人よりも技術が向上し続けるということはあるだろう。包丁の技術は、自転車よりも、技術的な緊張感や学習意欲、結果のフォードバックを感じやすいともいえるだろう。しかし、そういう意識を発見しない限りは、包丁の技術もある一定で収まり、それ以上は向上しない。
仕事について。職人のような高い要求がある技術職ではれば、スポーツと同じように向上の意識はどこまでも際限がない。それとは別にある程度の技術を習得すれば、それ以上の技術向上が求められない仕事がある。前者は、練習よりも条件の変化やシビアな緊張感や責任感を持つが、向上の意識を持つという意味で、練習の意識と結びつくだろう。後者は、仕事は習慣的な動作よりもあきらかに緊張感を持っているが、技術向上よりも効率化に重きがおかれ、習慣に近づく。
リハビリは、技術を支える身体の条件の根本的な変化に対応しつつ、技術の修復を行うことだということができるだろう。それは新たな技術の習得(身体と技術の可塑性)であり、過去にできていたことを再びできるようにするという修復の過程である。怪我や病気は習慣的に獲得されていた技術の自明性(という幻想)を破壊するものである。

うまくなろうとしない行為の継続性は何を意味するのか、あるいはどの時点で技術の向上は止まるのかに興味があって、少し整理してみた。